さて、21日。明日は10時過ぎの列車でウィーンに向かうことになっているので、今日がプラハ観光の実質最後の
日となる。今回はユーレイルパスつきのパックツアーで、プラハ〜ウィーン間の移動は列車になるのだが、列車そのものは
自分たちで選ばないといけない。ということで、ダイヤは例によってチェコ国鉄のHPで調べたのだが、このパスは自由席用なので
できれば指定を取っておいたほうが安心だよね、と、まずは翌日乗る予定のプラハ本駅へ向かう。ここは我々の地下鉄最寄駅で
あるクリツィコバから隣のフローレンツ駅で乗り換えてから1つ目である。 そして、この旅最大のアクシデントになったかも
しれない出来事は、フローレンツで乗り換えた直後に起きた。

  

 フローレンツで電車に乗った直後である。通勤・通学時間帯とはいえ、プラハではラッシュの混雑はない。ところが
彼の後に続いて車両の中ほどに進もうとした私は、前に立ちふさがった女性が邪魔でドアのすぐそばに押し付けられるように
立つ形となり、彼のほうに行けない。どうせひと駅だからいいや、と思った瞬間、カメラのフードに何かが当たるのに気づいて
そちらを見たところ、その立ちふさがった女性が自分のバッグで隠すようにしながら、こちらに手を伸ばしているではないか!

 来た!と思った。プラハの地下鉄でのスリの多さ、またその手口はいろいろ事前に調べてきていた。小さめのショルダーバッグを
斜めがけにしてカメラは首からつりさげ、そのカメラで体の前に回したバッグを押さえつけるようにしていたのだが、それでも敵は
手を出してきたのである。
 もう気づいたんだから!と、バッグを押さえつける手にいっそう力をこめた瞬間、今度はふいに肩をつつかれた。私はドアを
背にしてその女性と向かい合う形になっていたのだが、今度は私と並んで立っていた背の高い男性がふいに話しかけてきたのである。
「英語は話すか?」というので、ほんのちょっと、と答えると、ドアの上に掲示してあった地下鉄の路線図を指差し、「この電車は
どっち方面に向かっているのか?」と尋ねるのだ。

 女性にはくるりと背中を向ける形となったが、今の出来事で動転して自分の行き先の駅名などすっとんでしまっているし、路線図を
見てもはっきりわからず英語も出てこない。 かろうじてたぶんこっちだろうと思ったので「(路線図の)右(方向)」とだけ言ってみたのだが
男性は繰り返し尋ねてくる。 バッグを押さえつけておくことだけは忘れてはいなかったけど、どうしよう!と思った瞬間、またまた肩を
つつかれた。
 振り返ったら、彼が険しい表情で手招きしている。私が「取り囲まれている」ことに気づいて手を伸ばして呼んでくれたのだ。
女性はさすがにあきらめたようですんなり横を通してくれたので、やっと私は解放された。 彼のそばに戻ってからも1,2分は乗っていた
ような気がするので、時間にしたらごくごくわずかの間の出来事だっただろう。だが、今思い出してもかなり長い時間、どきどきしていた
ように思う。
 男性と女性は明らかにグルで、最初に女性がアタックしてうまく行かなかったので男性が私の注意を引き、再度彼女がねらう手順
だったのだろう。もしかしたら第三の手段も用意されていたかもしれない。

 降りてから気づいたのだが、いつのまにかバッグのファスナーが開いていた。開けられたのか、私が閉め忘れたのかはわからない。一応
スリに備えて財布とバッグをチェーンでつないでおいたのだが、中身だけ抜き取られることもありうるわけだ。そうなったら損害もさること
ながら、未遂でもこれだけショックなのだから…とぞっとした。あらためて気をつけよう、と誓った次第である。

 さて、気を取り直して切符の窓口に向かい、予定の列車の指定券を無事GET。安心して次は今夜の人形劇のチケット引取りだ、と
プラハ中心部へ向かう。ボヘミア・チケット・インターナショナルというチェコ版ぴあ?のネットであらかじめ予約してあったのを
コンファーム・メール(のプリント)を見せて、これまたその窓口で無事GET。 ここは9時からの営業だったので、時間をつぶしがてら
そのあたりを引き取り前に軽くスナップしたのが以下の写真だ。お天気は最高、きれいな青空である。

 

 

 上の左は、有名観光ポイントの一つである火薬門。ここから始まる「王の道」がいわば定番の観光コースとなっている。
「王の道」とは、かつて15世紀から19世紀にかけて、時代が変わるたびに歴代の王が戴冠パレードを行ってきた道のことで、最後は
1836年のフェルディナント5世とのこと。

 上の右がその火薬門の下から「王の道」をのぞいたところで、ここからカレル橋を渡って対岸のプラハ城へと続くのだが、その間に
かなりの観光ポイントが集中している。まず火薬門(火薬塔)は、もともと旧市街を守っていた城壁の門で1475年に建てられたものだが
17世紀に火薬庫として利用されたためにこう呼ばれるようになったという。

 ここから旧市街広場までの通りがツェレトゥナー通りだが、この通りは古くから商人たちの交易ルートとしても栄えた。以下の写真はその
ツェレトゥナー通りのスナップである。

 

 


 そしてこのツェレトゥナー通りをカレル橋方向に歩いた「終点」が旧市街広場である。ここは「プラハの心臓部」ともいえる場所だそうで、数々の
歴史的事件の舞台になったところでもあり、広場を取り囲む建物群はゴシック、ルネッサンス、バロックなどの建築様式が混在して、それぞれの
時代をしのばせるものとなっている。今回は多少スナップはしたけど通り過ぎただけで終わってしまったのが、今となってはすごく残念だ。とにかく
広くて、14-54mmレンズではとらえきれなかった。ということで、上の2枚は右と左の写真を頭の中でつなげてご覧あれ。
 
 下の2枚は、観光客向けの馬車とクラシック・カー。前日の広場の写真で白いミニカーみたいなものも写っていたが、あれも観光客向けの
人力カーである。馬車は実際に人が乗って走っているのを何度も見かけた。
 
 

 


 さて、広場を抜けて今度は一路カレル橋へ。通りの名前もカレル通りである。開店準備中のお店のショーウィンドゥやオープンカフェが目に付く。
ぼつぼつ開けているお店もあったような。

 下のケーキはなんと飾ってあるのがほおずき?! これ、食べられるの?? チョコレートコーティングのバナナの上、たっぷりのクリームが
すごい。土台もチョコだし。お人形はチェコの人々がスラブ系民族であることを納得させてくれるもので、ロシアのそれとよく似た衣装、可愛らしい
バラライカも抱えている。また、オープンカフェはそれぞれ皆個性があって、このテの写真は何枚撮ったかわからない。グラスの形、クロスの色、
セッティングのレイアウト、さらに椅子の形などバラエティに富んでいて、私にとっては飽きない被写体である。

 




 そしていよいよカレル橋へ。通りを渡るともうそこはカレル橋だ。写真左で信号待ちの人々の向こうにそびえるのは橋塔で、もとは通行料を徴収したり
橋を守るために作られたものだそうで、途中までは無料で上ることができる。で、その塔の小さな窓から橋を撮ったのが右の写真である。
下はいざカレル橋!と張り切る私。

 



 現在のカレル橋はなんと約600年前に作られたもので、1357年より60年近くかけて完成したという。当時両岸を結ぶ唯一の橋で、その後
何度かの洪水にも耐えてきたとのこと、橋の欄干には聖人像が左右それぞれ15体ずつ並んでいる。これらは完成当時からあったものでは
なく、17〜19世紀にかけて加えられたとか、この聖人像についても1体ずつ写真入りで解説できたらよかったのだろうが、非キリスト教徒の身では
ありがたさも中ぐらゐ(失礼)、ということでパスします。あしからず。

 聖人像もさることながら、私が惹きつけられたのは橋の上で売られていたさまざまな「作品」とストリートミュージシャンたち。「作品」と書いたのは
それらがいわゆる「みやげ物」ではなく、売り手たちが創意工夫で生み出したものばかりだったからである。絵、人形、エッチングの版画、カード、
アクセサリーetc、どれも色、形のなんとあか抜けていること、しゃれていること!売り手たちはすべて顔写真の入ったおそらく当局の許可証を
売り台のよく見えるところに掲げており、いわば「お墨付き」であるため安心感もある。

 値段もお手ごろ、いや日本の感覚からするとむしろ安い。あれもこれも欲しくなったけど、観光はこれからだ。帰りにきっと買うぞ!と思いながら
手持ちのコルナをこっそり計算してみる。で、オリジナル作品に違いないそれらをあまりパシャパシャと撮るのもためらわれたので、写真は
少ないが一応ご報告まで。

 


 そしてストリートミュージシャンも何組か見かけた。最初に見たのがこのバンドで、かなりの人だかりだ。うまいなあ…と思っていたら、観客の
中からおそらく10代と思われるカップルが演奏にあわせて踊り始めた。 二人ともどことなくはにかんでいる様子がなんとも初々しくて
とってもいい感じ。周りの人々もにこにこしながら見守って、踊り終わると盛大な拍手が起きていた。もっと長く踊ってほしかったなあ、やっぱり
恥ずかしかったようで、二人は早々に引きあげてしまった。

 


 橋を渡り終えると、ほどなくマラー・ストラナ広場に出た。時間は11時近く、プラハ城見学は時間がかかるに違いないということで、ちょっと
早いけれど昼食を取ることにする。適当なお店を探したのだけど、どうもチェコらしい料理に縁がない。後でメニューの中に牛肉のグラーシュ
(煮込み料理でチェコではポピュラーなもの)があったことに気づいたのだけど…ね。私が頼んだのはコールスローサラダ、キャベツが想像以上に
ダイナミックに切ってあってちょっと食べにくかった。

 


 腹ごしらえが終わったら、後はプラハ城をめざすのみ。ゆるやかな坂になっているネルドヴァ通りを、スナップしつつ上っていく。道の
両側は土産物屋さん、カフェ、なぜか大使館などが並んでいるが、ボヘミアグラスをのぞいて「超高級品」を扱う雰囲気のお店はなく
親しみやすい感じのお店ばかりだ。 

 写真の右下は坂道の突き当たりにあったカフェだが、見ればここを折り返し点として、さらにもっと急な坂が続いているではないか。
さっきの食事で、二人とも昼間からビールをジョッキ1杯ずつ飲んでおり、ほろ酔い状態での「登坂」はなかなかきついものがあった。お天気は
良すぎるくらいで、日差しもかなりのものである。ふう。

 

 


 だるい足を引きずりつつ上ったが、上りきると目の前にすばらしい眺めが開けた。周りはもちろん観光客だらけだが、皆ここで足を止めて
風景に見入っている。思ったより高い場所まで上ってきたようだ。後ろを振り向けばいよいよお城の門、衛兵がちゃんと立っている(右上の
写真のすぐ右が門になっている)。

 

 衛兵さんは記念写真の相棒として人気者。次から次へと人が横に並んでポーズを取る。


 さて、いよいよプラハ城見学となったのだが、ここは9世紀の半ばから建築が始まり14世紀のカレル4世の時代に現在の形にほぼ整えられた
とのこと。城壁に囲まれた広大な敷地には旧王宮、教会、修道院などがあり、建物の一部を利用した博物館や美術館もある。ガイドブックに
よれば、それぞれの施設見学のためのチケットは5箇所がセットになったチケットA、3箇所用のチケットB…など何種類かあるのだが、
あまりたくさんは回りきれないかもね、ということで2番目に回る箇所が多いチケットBを選んだ。これが本日2つ目の「アクシデント」につながる
とも知らずに…。

 お城に入ってすぐのところにあるインフォメーションでこのチケットBを買った我々は、さっそく目の前にそびえる聖ヴィート大聖堂に入る。
ここはもともと930年に作られたロトゥンダ(円形の礼拝堂)だったが、14世紀のカレル4世の時代に現在の姿をめざして工事を開始、1420年に
かなりの部分が完成。その後も手を加えられて最終的に完成したのは20世紀に入ってからとのことである。左の写真は入り口を入ってすぐの
ところにある第2の中庭で、奥に見えているとがった塔が聖ヴィート大聖堂である。ここもどうがんばってもレンズに収まりきれなかった。
右の写真はその大聖堂を横から見たところである。

 

 

 入ってすぐ目に付いたのがステンドグラス、光を受けて輝いている色彩がすばらしい。しばらく眺めた後、さらにかのムハ(ミュシャ)の
作品もあるという奥に進もうとしたところ、その先は有料ゾーンだというので先ほどのチケットを差し出したら、申し訳なさそうな
顔をした係りの女性、後ろの売り場を指して向こうでチケットを買ってほしい、これでは入れないとのこと。え?だってここは含まれている
はずなんだけど? そうだよねえ? 二人してガイドブックをもう一度確認…うん、入っている。 ヘンだなあ、何か変更されたのかな。

 チケットに書かれた説明を見てもどうもピンとこない。首をかしげながら、じゃあとりあえず別のところをのぞいて、時間があったら
ここに戻ってこようか、ということで別のギャラリーに入ろうとしたら、えっ、ここもダメ? もう一度よくよくチケットを見てやっと
気づいた。 ガイドブックではこのチケットでOKだった聖ヴィート大聖堂、実際にははずされていたのである。入れるはずだったところが
ダメだというショックは大きい(しかもこの時点でなぜか二人ともこのチケットBが4箇所用だと信じ込んでいた。それが実際は2箇所
だったのだから、「半減」のダメージはなおさら大きかった)。

 先ほど坂をだらだらと上った疲れもあり、いっぺんにテンションの下がった我々は、もうそれなら回れるところだけでいいや…と
次は旧王宮に向かう。ここは実際に王宮として使われていたのが16世紀までだそうで、使われなくなって久しいせい?石壁むき出し、
ほとんど装飾も施されていない、およそ「王宮」らしい華やかさとはかけ離れた中の様子である。
 最初はあまりの「素っ気無さ」に驚いたが、それがかえって時の流れを感じさせ、華やかなりしかつての様子を想像させてくれるような
気もして、今写真を見返してもなかなかここの雰囲気はよかったなと思う。

 右はヴラディスラフホールという名前で、完成当時はヨーロッパ最大のホールだったとか。天井の形が面白い。騎士の馬上競技や
戴冠式といった国家的な行事の際に使用され、1934年からはなんとここで大統領選挙が行われてるとのこと。ガラスではなく
鉄製のシャンデリアがとてもいい雰囲気を出している。

 

 
 下の左はこのホールのバルコニーから見渡せるプラハの街で、気持ちいいことこのうえない。右はバルコニーの天井、1938年5月10日という
日付が見えるが、補修したときの日付なのだろうか。

 


 また、この礼拝堂はホール奥にあるもので全聖人礼拝堂という名前がついている。2年前のウィーン旅行で目にしたそれ、またさっきの聖ヴィート
大聖堂ともまったく雰囲気の異なる、シンプルきわまりない様子に驚いた。下の右の写真は王宮内の一室だが、ここで初めて壁に装飾らしいものを
目にした。いわれはまったくわからないが、各諸侯の紋章ででもあるのだろうか。

 

 
 さて、旧王宮を出ると後見られるのは1つ、黄金小路しかない。ここは1597年にできたものでもともと城内で仕える召使などが
住んでいたとか。やがてその一角に錬金術師が住むようになり、この名前がついたという。どれも小さな建物がずらっと並んでおり
色とりどりに塗られていてホントに可愛い。 現在はすべて土産物屋になっている、というガイドブックの説明だが、いわゆる「観光
みやげ」というより各ショップが工夫をこらした手工芸品、またアンティークがほとんどで、いちいち見とれてしまう。
 
 モノ好きな私としては思いっきりツボだったので、ちょっと多めに写真を並べておく。一番上左の黄色い陶器が並んだお店、特に
気に入ったのだが残念なことに手持ちのコルナがぎりぎりで、買えたのは小さな黄色い飾り皿が1枚だけ。城内にも両替所はあった
のだが、この黄金小路の中にはなかったのである。カードは使えるところが限られていて、このお店は不可。 恨めしかった。
 なお、真ん中右の青い小さな家は、かのフランツ・カフカが半年間仕事場として使ったというものである。

 

 

 


 さて、これでプラハ城見物はすべて終了、後は夜のマリオネット鑑賞を残すのみである。入り口のほうへ戻ると、ちょうど衛兵の交代時間と
みえて、行進してくるところに出会った。交代式は毎正時に行われるそうである。門を出たところではおじさんたちのバンドに出会った。
木管フルートを吹いていたおじさん、すごくいい声で歌も聴かせてくれた。

 


 先ほどとまったく同じ道を今度はだらだらと下っていく。先ほどと反対側を歩いたせいか、さっきは気づかなかったお店の看板などが
目につく。 一方、チェックしておいたショップは抜かりなく立ち寄って買い物をし、カレル橋の上では小さなアクセサリーもGETして
市内まで戻る。カレル橋では、行きには見かけなかったギター、ツィター奏者が出ていて、しばらく聞きほれてしまった。

 

 


 そろそろ夕暮れが迫る市内、人通りはまったく昼間と変わらない。ところで、この日に歩いたのは典型的観光コースでプラハ市内でも
もっともにぎやかな、いわば「表の顔」として隅々まで整えられた場所ばかりだったのだが、一歩裏通りに入ったり、また観光客の少なめな
場所にくると落書きが愕然とするほど多い。日本でも近年よく見かける「タグ」と呼ばれる記号めいたものが目立つ。 アーティスティックな
ものもあるが、見るからに「荒れた」感じものが多く、さらに翌日列車の中から見て驚いたのだが、どうやってあそこまで上ったの?と思う
ようなビルの高い壁にまで書きなぐってあるのだ。

 プラハ市内だけではなく、列車で田園地帯にさしかかると各駅停車の列車しか止まらないような小さな駅の駅舎、ひどいのは駅名
表示の看板まで読めないほど落書きで埋め尽くされている。あまりにひどいのはレンズを向ける気になれなかったが、そういう業務に
支障をきたしそうな落書きがそのままになっている、というところに、大げさかもしれないがチェコという国の抱える「闇」の部分を見た
ような気がした。
 なお、下の写真の赤い車のボディは落書きではなくおしゃれなペインティングと思われるので、念のため。

 


 さて、劇場の開演時間は夜の8時と遅めだったので、いったんホテルまで引きあげて休憩することに。昼間のひと休みで
濃厚なザッハトルテとホットチョコレートを食べていた彼は、夕食への執着はまったくなく、いっぽう横からそのザッハトルテをちょこっと
つまみ食いしたものの紅茶しか飲んでいない私は軽く何かおなかに入れたい感じ。だが、もちろん一人でどこかに行く勇気は
ないし…終演後にどこか寄ってもいいから、となだめられて、半分むくれつつ持参のお菓子などをつまんで我慢する。

 マリオネット、人形劇はチェコでは大切な伝統文化の一つで、ガイドブックによると、子供ばかりでなく大人にとっても大きな
娯楽の一つとか。プラハにはDAMU(国立芸術アカデミー演劇学部)人形劇科、という学校まであり、外国人も多数学んでいる
とのこと。
 そもそもの始まりは紀元前からこの地に住んでいたケルト人たちの土俗信仰までさかのぼるというのだから、歴史的背景も
ハンパではない。説明は一気に19〜20世紀まで飛ばすが、ドヴォルザークやスメタナも人形劇のための作曲をしており、チェコ
スロバキア共和国時代にも数多くの劇場が作られたという。

 そして、以前はチェコ語で演じることがアイデンティティの証であったが、今や外国人観光客のための英語やドイツ語などの
上演が人気で、「ドン・ジョヴァンニ」や「オルフェウス」などの古典をはじめバラエティ豊かな演目が上演されているとのこと。
お土産用としてもマリオネットの人形たちは多く見かけた。日本人の感覚からするといわゆる「かわいい」といえるものでは
ないけれど、独特の風貌にこの国らしさを見てとった。写真はプラハ城近く、ネルドヴァ通りで見かけた人形である。




 いよいよ開演時間が迫り、ホテルを出た。大きなE-500はお留守番、今度はエクシだけを持っていく。地下鉄に乗って3駅、
乗り換えてひと駅。Staromestska(旧市街広場)駅で降りてすぐのところに国立マリオネット劇場はあった。

 建物はかなり古い感じ。椅子もごくシンプル、というか質素なものだ。マリオネット専門の劇場なので、全体にこじんまりした
雰囲気であるが、ちゃんとクロークも売店もある。ここでも人形を売っていた。

 

 

 右下の写真、舞台の緞帳、というより幕、かな。写真ではわからないが、なぜか真ん中あたりがしみだらけになっている。財政的に厳しいのか
なあとよけいなことを考えてしまったが後でその理由がわかった。

 やがて開演。出し物はモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」、ここプラハで、昨日行ったあのベルトラムカで書かれたものである。狂言回し
として指揮者(モーツァルト自身と思われる)の人形が出てくるのだが、これがなかなかの役者でいろいろやってくれるのでお客は大笑いだ。
音楽自体はもちろん「アテレコ」で進行するのだが、指揮者の「演技」がちょっとした息抜きの役目をしていた。

 で、もちろん上演中は撮影を控えていたのだが、人形ということで劇場側もおおらかに構えているのか、ときどきフラッシュも光れば
なんと液晶画面を見ながらビデオ撮影している人までいる! それじゃ、ということで、でも液晶を使う撮影は後ろの人に迷惑だろうと
ファインダーをのぞいてもちろんフラッシュなしの撮影を私も試みる(エクシのファインダーを使っての撮影、実はこれが初めてだった)。
 ご覧の通りの暗さなのでほとんどブレブレで終わったが、こんな感じだった、ということで、ご報告まで。右は終演後に撮った指揮者の
人形である。この舞台手前の暗がりがホンモノと同じくオーケストラピットという設定で、指揮者=モーツァルトの人形はもっぱらここで
演技していた。

 

 音楽に乗って人形たちが演技しているのを見ていると、それが人形だということを忘れそうだ。演出としてときどきわざと人形遣いが手をのぞかせ
たりして、その瞬間だけ現実に戻るのだけど、すぐ物語の世界に引き込まれてしまう。
 
 全体に繊細というよりダイナミックな感じ、あの幕にあったしみはなんと劇中でホンモノの水を使うせいで、これには驚いた。人形の衣装も濡れて
しまうだろうに…大丈夫なのかな? 歌舞伎でも本水を使うことはあるけれど、前列のお客さんにはビニールシートを配ったりしてそれは気を遣う。
 このときは何の遠慮も無く客席までそれこそ豪快に水しぶきを飛ばしたのはお国柄? いや、細かいことに気を遣う日本のほうが珍しいのかな、
お客は大笑いに大喝采だったけど。 休憩をはさんで2時間弱、ダイジェストではないフルバージョンでのしっかり上演だった。
 
 終演後の最後の写真、売店のお姉さんの顔を見ていると、この国の人々がスラブ系民族だということをあらためて実感する。




 これでプラハでの予定はすべて終了した。明日は10時過ぎの列車でウィーンに向けて出発である。列車は2年前のヴァッハウ観光のとき
にも乗ったけれど、1時間半ほどのわずかな時間だったし国境を越えたわけでもない。今回は4時間半近くかかるチェコ〜オーストリア間の
国際列車の「旅」だ。 ヨーロッパ鉄道の旅というのはちょっとあこがれるところだったので楽しみだ。 願わくばもうアクシデントがありません
ように…ということで、次からは旅日記・オーストリア編となります。 どうぞお楽しみに!


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